<第57回> マリーナ・レベカ(ソプラノ)

パルマのヴェルディ・フェスティバル「レニャーノの戦い」より(C)Roberto Ricci
パルマのヴェルディ・フェスティバル「レニャーノの戦い」より(C)Roberto Ricci

透明で、華麗で、精緻で、力強い

すべてが高次元で結晶した至高のソプラノ

現代最高のソプラノのひとりで、かつ一番好きなソプラノのひとり。私は以前からそう公言してきたが、そのように思うにふさわしい歌手として、さらに進化しているのを聴くたびに実感する。

2019年11月にトリエステのヴェルディ歌劇場日本公演で、ヴェルディ「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」のヴィオレッタ役を歌い、聴き手を唸らせた。この役は上演頻度が高く、だれでも歌えるものと誤解されがちだが、実際にはかなり難しい。第1幕では伝統的な装飾歌唱が高次元で要求されながら、第2幕以降はかなり劇的な表出が求められる。その両者を並び立てるのは至難である。

そんな役だからこそ、レベカが歌うとどの場面もはまった。ロッシーニがのちに妻にしたイザベラ・コルブランのために書いた高難度の装飾歌唱を精密に歌いこなすレベカだが、デビュー時から音圧が高く、中音域が充実していた。このため華やぎにも苦悩にもリアリティがある、ヴェルディはこう望んだのではないか、と思われるヴィオレッタが表現された。

それは私が無数に聴いてきたヴィオレッタのなかでも、特別に記憶に残るものだったが、残念ながら、それから間もなく世界はコロナ禍に見舞われた。

久しぶりにレベカが歌うのをパレルモのマッシモ劇場で聴いたのは、2023年4月のことだった。ベッリーニ「ノルマ」の表題役だったが、まさしく至高のノルマだった。既述のように、ヴィオレッタ役には装飾歌唱と劇的表現の両立が必至だが、ノルマ役はそれ以上で、あらためてレベカのために書かれた役のようだと感じた。一言でいえば高貴なのである。

十分な音圧がかかりながら、その声は透明かつきめ細やかで、その微細な粒子が精密に運ばれるようにフレーズは研ぎ澄まされている。そして、磨かれた清澄さを少しも崩さず、そこに激しい感情も載せる。指揮のロレンツォ・パッセリーニはほぼノーカットで演奏し、繰り返しにはバリエーションを多彩に加えるなど、初演された当時の様式へのこだわりを徹底したが、のちにインタビューした際、「レベカという特別な歌手がいたから、そういう演奏が実現した」と語った。

パレルモのマッシモ劇場「ノルマ」より(C)Rosellina Garbo
パレルモのマッシモ劇場「ノルマ」より(C)Rosellina Garbo

パルマ「レニャーノの戦い」での理想の歌唱

その後、2024年3月にミラノ・スカラ座で上演されたミケーレ・マリオッティ指揮のロッシーニ「ギヨーム・テル」は、レベカが直前にキャンセルして残念至極だったが、10月にパルマのヴェルディ・フェスティバルで上演された「レニャーノの戦い」のリーダ役は絶品だった。

1848年の2月革命に触発されて書かれたこのオペラは、ヴェルディの作品中ではマイナーだが、ベルカント時代の歌唱美がなお漂うなかに、男同士の友情と裏切り、妻の裏切りと夫の暗い情念など、のちの「仮面舞踏会」や「ドン・カルロ」を思わせる人間劇の要素も色濃く、味わい深い。指揮をした若いディエゴ・チェレッタは、エレガンスを維持しながら、人物の感情に沿ってやわらかく、時に悲痛に表現し、これが名作であることを聴き手に強く印象づけた。

そんななかレベカは、声の質感も輝きも理想的で、装飾的表現は精密で美しく、フレーズには無限のニュアンスが加えられ、申し分なかった。

たとえば第1幕に置かれた、伝統的な二部構成のアリア。前半のカンタービレでは苦悩が深く掘り下げられ、後半のカバレッタでは、かつて愛し合い、死んだと思っていたアッリーゴの生存を知って、よろこびに心が弾むさまが描写された。様式感を壊さずに、こうした心情の変化を、声の色彩に鮮やかに反映させる力に感嘆した。カバレッタの繰り返しではバリエーションを加えたが、初演時の演奏慣習を考えれば、ヴェルディのオペラでもそれは妥当である。

13歳のとき故国ラトヴィアのリガで、祖父に連れられて「ノルマ」を鑑賞し、「ノルマ」を歌う歌手になると誓ったというレベカ。年々、声の成熟に即してノルマ役を磨き上げており、2025年7月にはミラノ・スカラ座でも歌う。この至難の役をさらに深め続けるかぎり、レベカの進化は止まらないだろう。

Picture of 香原斗志
香原斗志

かはら・とし

音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「魅惑のオペラ歌手50:歌声のカタログ」(共にアルテスパブリッシング)など。「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。

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