ケニア生まれのイタリア人の
きらめく声による軽やかで鮮やかな表現
2024年4月、東京・春・音楽祭で上演されたプッチーニ「ラ・ボエーム」。ミミ役のセレーネ・ザネッティやロドルフォ役のステファン・ポップも立派だったが、事前に情報を得ることなしに聴いたこともあり、ムゼッタを歌ったソプラノのマリアム・バッティステッリが強く印象に残った。きらめきがある声が魅惑的で、そこに装飾を交えて鮮やかに飛翔させ、言葉も美しい。曲のフォームがしっかり構築されながら、硬さがない。逸材を発見したうれしさを感じた。
1988年にエチオピアに生まれたイタリア人で、マントヴァのルーチョ・カンピアーニ音楽院を優秀な成績で卒業後、バレンシアのソフィア王妃芸術宮殿にあるプラシド・ドミンゴ王立オペラ・スタジオで研鑽。2017年にローマのオッターヴィオ・ジーノ国際オペラ・コンクールで第1位および聴衆賞に輝いたが、じつは、それ以前に「オペラ・デビュー」を果たしていた。2010年にRAI(イタリア国営放送)が制作し、ドミンゴが主演したテレビ映画「マントヴァのリゴレット」に、小姓役で出演していたという。
飛躍したのは18年から20年夏まで加入していた、ウィーン国立歌劇場のアンサンブルの時代だろう。このときムゼッタをはじめ、「ヘンゼルとグレーテル」のグレーテルや「魔笛」のパミーナなど、複数の原語による多くの重要な役を経験し、歌唱をしっかりと固めながら、多様なスタイルに対応できる表現力を修得したようだ。
だから、レパートリーは幅広い。「愛の妙薬」のアディーナや「カルメン」のミカエラ、「こうもり」のアデーレまで、伊仏独のいずれのスタイルにも適応し、バロック・オペラも得意としている。
「エジプトのモゼ」で際立った存在感
あらためてバッティステッリの能力と魅力に感じ入ったのは、2024年10月27日、伊ピアチェンツァで上演されたロッシーニのオペラ・セリア「エジプトのモゼ」を鑑賞してのことだった。
これは1818年3月、ナポリのサン・カルロ劇場で初演された作品で、簡単にいうと、旧約世紀の「出エジプト記」に書かれている著名な「海割り」によって、モーセ(オペラではモゼ)がヘブライ人たちをエジプトから脱出させた物語が中核をなしている。聖なる作品という意味でも、合唱が重視されているという意味でもオラトリオに近く、ヴェルディが「ナブッコ」の作曲に際して参考にしたといわれる。
この日はジョヴァンニ・ディ・ステファノの、劇的だが軽快で厳かな気分にも不足がないバランスのとれた指揮のもと、モゼ役を歌ったミケーレ・ペルトゥージが抜群の様式感に支えられた品格が高い表現で圧倒したが、ファラオーネの妻であるアマルテア役を歌ったバッティステッリも負けてはいなかった。
やはり、きらめくように響きわたる輝かしい声には、アンサンブルのなかでも際立つくらいに存在感がある。その声に情感を載せ、レガートの旋律はなめらかに強弱をつけてニュアンスたっぷりに歌う。そこからアジリタのある早いパッセージに移行すると、柔軟に装飾を加えながら、無理なく高音まで飛翔し、その間も一貫して輝かしい響きが失われない。第2幕のアリアでは拍手がなかなか止まなかった。
経歴を見るかぎり、これまでロッシーニを歌った経験は、あまりなかったようだ。それなのに難度の高いベルカントの表現を、この水準でこなせること自体、バッティステッリの能力が高いことの証左である。今後、彼女が歌う公演は要注目だと思っている。
かはら・とし
音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「魅惑のオペラ歌手50:歌声のカタログ」(共にアルテスパブリッシング)など。「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。