<第52回> ダニエラ・バルチェッローナ(メゾ・ソプラノ)

ダニエラ・バルチェッローナ (C)Studio Amati Bacciardi
ダニエラ・バルチェッローナ (C)Studio Amati Bacciardi

いまも最高のズボン役は
最高のヴェルディ歌いでもある

中部イタリアのペーザロで毎夏開催されているロッシーニ・オペラ・フェスティバル(ROF)では今年(2024年)、「ビアンカとファッリエーロ」というオペラ・セリア(正歌劇、まじめなオペラ)を上演する。若い娘ビアンカと相思相愛の将軍ファッリエーロは、男性役だが女性が歌ういわゆるズボン役で、日本の脇園彩が抜擢された。このレアな作品を鑑賞する前に振り返っておこうと思い、2005年のROFの上演を録音したCDを聴き直して、生で聴いた際の感動がよみがえり、あらためてダニエラ・バルチェッローナの歌唱のすばらしさに心打たれた。

量感がある深い声で、なめらかでやわらかく、しかも輝かしい。さらに、その声が軽やかに疾走し、展開する。小さな音符の連なりを敏捷(びんしょう)に歌うアジリタの運動性もじつに高い。細かく聴くとコントロールをしきれていない部分があるのだが、フリースタイルスキー(モーグル)のトップ選手のように、あまりに鮮やかに斜面を駆け抜けるので、着地が多少乱れても気にならない、とでも喩(たと)えられるだろうか。

バルチェッローナに圧倒されたのは、1999年のROFで初期のセリア「タンクレーディ」のタイトルロールを歌うのを聴いたときだった。がっしりとした体躯の長身で(180センチはある)、足が長く、さっそうと歩き、ルックスもこの救国の騎士そのものだった。そのうえ上に記したような歌唱である。このとき彼女の声をはじめて聴いて、みずみずしさと、深さと、やわらかさと、力強さと、敏捷性という、相反するような要素がバランスよく共存していることに驚くほかなかった。

ロッシーニは、18世紀にはアルト・カストラートが歌った男性役を、女性に歌わせることが多かった。それを聴くと、良くも悪くも性的倒錯が感じられることがあるが、バルチェッローナがズボン役を歌うと、視覚的にも、力強さにおいても、その手の倒錯を感じない。そうした意味でも彼女は、時代を画した圧倒的なズボン役だといえる。

さらに「男性らしさ」を増したズボン役

その後、日本でも、2006年に新国立劇場の「セビリャの理髪師」でロジーナを歌ったのを皮切りに、ヴェルディ「ファルスタッフ」のクイックリー夫人や「アイーダ」のアムネリスなどを披露し、強い印象を残した。そのやわらかく柔軟な声は、元来が量感に富んでいたので、次第に円熟を増すにつれ、ヴェルディが書いたメゾ・ソプラノの役を力強く歌えるようになったのである。

あえて指摘をすれば、レガートのスムーズさには少し欠けるところがある。録音で聴くとそれに気づきもするが、実演では、アジリタについて記したのと同様で、歌唱の豊かさと力強さに圧倒され、あまり気にならない。

また、昨年(2023年)は、「エドゥアルドとクリスティーナ」というオペラ・セリアで久しぶりにROFに戻り、将軍エドゥアルドを歌って、ズボン役としての健在ぶりを示した。ヴェルディのドラマティックな役を歌うようになっても、なおロッシーニのめくるめくほどの装飾歌唱を、鮮やかかつ柔軟に歌いこなし、そのテクニックが本物であることを知らしめた。そのうえ、声が力強さと暗さを増したぶん、ズボン役がいっそう男性的になったともいえた。

今年55歳。円熟のときを迎え、ロッシーニでも、ヴェルディでも、そのほかのオペラでも、まだまだわれわれを圧倒してくれるはずである。

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香原斗志

かはら・とし

音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「魅惑のオペラ歌手50:歌声のカタログ」(共にアルテスパブリッシング)など。「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。

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