「ネゼ=セガン時代」を宣言したMETオーケストラの日本ツアー2024

音楽監督ネゼ=セガンとのコンビ初来日となった今回の日本公演 撮影 長澤直子
音楽監督ネゼ=セガンとのコンビ初来日となった今回の日本公演 撮影 長澤直子

米国というよりは世界を代表するオペラハウス、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場(MET)の管弦楽団「METオーケストラ」が2024年6月、日本を含むアジアツアーを行った。歌劇場全体の「引越し公演」は1975年から2011年にかけて断続的に企画されて期間中、「メトロポリタン歌劇場管弦楽団」がコンサートを開くこともあったが、METオーケストラの名称による単独ツアーは今回が初めてだ。2018年に就任した現在の音楽監督、ヤニック・ネゼ=セガンとのコンビの「お披露目」でもあった。

 

ツアーの〝予習〟も兼ねて5月にニューヨークを訪れ、リンカーンセンターの本拠地で3演目——ケヴィン・プッツ「めぐり合う時間たち」(フェリム・マックダーモット演出、ケンショウ・ワタナベ指揮)とジョン・アダムズ「エル・ニーニョ」(リリアナ・ブレイン=クルーズ演出、マリン・オルソップ指揮)、ジョルジュ・ビゼー「カルメン」(キャリー・クラックネル演出、ディエゴ・マテウス指揮)を取材した。指揮者は偶然にも全員がMET本公演正式デビュー(代役起用を除く)。そろって英米の演劇シーンで頭角を現した気鋭の演出家の舞台で、見応えがあった。東京で再会したピーター・ゲルブ総裁に感想を伝えると、「絶えず新しい才能を探すなか、演出家では信頼に値する良質のストーリーテラー(語り部)を選ぶよう努めているのです」といい、私が感じた傾向にも裏付けが得られた。

 

今回のアジアツアーに際しては「ヤニック(ネゼ=セガン)とMETオーケストラの組み合わせにふさわしい、オペラとシンフォニーの両面を提示できるプログラムをヤニックと相談しながら決めました」と打ち明ける。確かにサントリーホールで聴いたAとB、2つのプログラムはオペラとシンフォニーに分かれ、興味そそられる対照をみせた。

「青ひげ公の城」で青ひげ公を歌ったクリスチャン・ヴァン・ホーン 撮影 長澤直子
「青ひげ公の城」で青ひげ公を歌ったクリスチャン・ヴァン・ホーン 撮影 長澤直子

6月25日のAでは前半がワーグナー「さまよえるオランダ人」序曲とドビュッシー「ペレアスとメリザンド」の管弦楽を往年のMETに君臨した大指揮者、エーリヒ・ラインスドルフが物語に沿って編んだ組曲、後半がエリーナ・ガランチャ(ユディット=メゾソプラノ)、クリスチャン・ヴァン・ホーン(青ひげ公=バス・バリトン)を独唱に迎えたバルトーク「青ひげ公の城」と、オペラの世界が広がった。3作とも幾ばくかの怪奇性を帯びた幻想的なテイストを共有するばかりか、1)ワーグナーの影響下に出発しつつ独自の総合芸術に踏み出したドビュッシー、2)ワーグナーとドビュッシー双方の影響が明らかなバルトークと、近代音楽史の教科書のような啓蒙性も仕掛けてあった。

「青ひげ公の城」でユディットを歌ったエリーナ・ガランチャ 撮影 長澤直子
「青ひげ公の城」でユディットを歌ったエリーナ・ガランチャ 撮影 長澤直子

冒頭の「オランダ人」はまだネゼ=セガンのレパートリーの核とはいえず、ドイツ風の重厚さにも欠けた半面、完全なコンサート・ピースとして再現され、METオーケストラの優れた機能、多彩な音色美を直ちに立証した。ザルツブルク音楽祭デビューがグノーの「ロメオとジュリエット」だった一例が示す通り、仏系カナダ人のネゼ=セガンは早くからフランス歌劇に適性を示してきた。「ぺレアス」を振り始めた途端、弦楽器が素晴らしく豊潤な音響に一変して、管楽器とハープが様々な色を添えていく。ラインスドルフの編曲は非常にわかりやすく、メリザンドの死の結末まで飽きさせずに聴かせた。

 

だが、圧巻は「青ひげ公の城」だった。ガランチャ、ヴァン・ホーンとも巨大な声量の持ち主ながら最弱音から絶叫までムラなく、汚い音が全くないまま大管弦楽を突き抜け、サントリーホールを美声で満たす。演奏会形式とはいえ、何気ない仕草や目つきでテキストの内容を適確に伝え、それぞれのキャラクターを演じきった。ネゼ=セガンは全身を使ってオペラ指揮者の資質を解き放ち才気煥発(さいきかんぱつ)の極。バルトークのスコアの詳細をかつて聴いたことがない次元まで詳(つまび)らかにして歌手ともども、総立ちの大喝采を浴びた。

歌手の技量、ネゼ=セガンのオペラ指揮者の資質があらわになった「青ひげ公の城」 撮影 長澤直子
歌手の技量、ネゼ=セガンのオペラ指揮者の資質があらわになった「青ひげ公の城」 撮影 長澤直子

26日のBは一転、後半にマーラーの「交響曲第5番」を据えたシンフォニーの夕べ。前半は米国の女性作曲家ジェシー・モンゴメリー(1981~)がシカゴ交響楽団のコンポーザー・イン・レジデンスを務めている期間(2021〜24年)に書き、音楽監督リッカルド・ムーティの指揮で初演した「すべての人のための讃歌」に始まり、オロペサの独唱するモーツァルトのコンサート・アリア2曲が続いた。前者は讃美歌ベース、後者はソリストがヴァイオリニストやピアニストではなくソプラノという点で、オペラのオーケストラのアイデンティティーもしっかりと担保されていた。オロペサは前日の2人ほど絶好調とはいえなかったが、アジリタ(装飾音型)の急速な部分でもイタリア語の発音が明瞭で、ポテンシャルは高い。ネゼ=セガンも様式感の洗練を印象づけた。

モーツァルトのアリア2曲を歌ったリセット・オロペサ 撮影 長澤直子
モーツァルトのアリア2曲を歌ったリセット・オロペサ 撮影 長澤直子

後半のマーラー「第5」は2019年11月、ネゼ=セガンがMETと同時に音楽監督を務めるフィラデルフィア管弦楽団の日本公演でも指揮して素晴らしかった記憶がある。今回もあり余るMETオーケストラのパワーを精妙にコントロール、ヨーロッパを思わせる弦主体で管打楽器が華を添えるバランスを基本として、じっくりと歌い込んでいく姿勢に非凡な独自性が備わっていた。フレーズを大胆に揺らしたり、最終楽章の大団円に向かって激しく追い込んだりする場面では「新たなロマン主義」の萌芽すら感じた。

 

明らかに5年前より踏み込んだアプローチ。指揮者としての「旅路」が新境地に至ったと思わせたのも確かだが、完成度に難があり、第3&4楽章では「未だ答えを見出せず」といった風情の停滞が生じた。管楽器にも細かなミスがあり、あるいは長旅と高温多湿の疲れがピークに達したのか、前日に比べ完成度でかなり劣ったのが残念だった。

公演データ

ヤニック・ネゼ=セガン指揮 METオーケストラ日本公演2024

6月25日(火)19:00 サントリーホール(プログラムA)
26日(水)19:00 サントリーホール(プログラムB)

メゾソプラノ:エリーナ・ガランチャ(プログラムA)
バス・バリトン:クリスチャン・ヴァン・ホーン(プログラムA)
ソプラノ:リセット・オロペサ(プログラムB)
指揮:ヤニック・ネゼ=セガン
METオーケストラ

〇プログラムA
ワーグナー:歌劇「さまよえるオランダ人」序曲
ドビュッシー(ラインスドルフ編):歌劇「ペレアスとメリザンド」組曲
バルトーク:歌劇「青ひげ公の城」(演奏会形式・日本語字幕付)

〇プログラムB
モンゴメリー:すべての人のための讃歌(日本初演)
モーツァルト:アリア「私は行きます、でもどこへ」「ベレニーチェに」
マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調

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池田 卓夫

いけだ・たくお

2018年10月、37年6カ月の新聞社勤務を終え「いけたく本舗」の登録商標でフリーランスの音楽ジャーナリストに。1986年の「音楽の友」誌を皮切りに寄稿、解説執筆&MCなどを手がけ、近年はプロデュース、コンクール審査も行っている。

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