前衛性を押し出した指揮、理想的な歌手陣
ローザ・フェオラというイタリアのソプラノがいる。日本ではまだ名前が浸透しきっていないが、私がいま一番好きな歌手のひとりである。深く艶がある美声がどの音域でも完璧に制御され、精緻な表現が豊かなニュアンスと一体なので、感情が深く掘り下げられる。彼女は新国立劇場2024/25シーズンの開幕公演、ベッリーニ「夢遊病の女」でヒロインのアミーナを歌うので、とても楽しみだ。そんな特別なソプラノがリュー役で出演するため、ナポリのサン・カルロ劇場でプッチーニ「トゥーランドット」を鑑賞した。
ヴァシリー・バルカトフの演出は、舞台が死後の世界に置き換えられ、演奏開始前に「プロローグ」の映像が流される。そこではトゥーランドットとカラフがティムールを埋葬し、リューも自殺したらしい。その後、二人は車で移動して大事故に巻き込まれる——。開幕後に展開するのは、そこから先の物語である。手術室のような部屋が天井から頻繁(ひんぱん)に降りてきて、そのなかでカラフ、またはトゥーランドットが生死をさまよっている。そして、最後に二人は死後の世界において結ばれる。
客席では罵声とブラボーの応酬もあったが、話の展開に無理がなく、水準が高い読み替えだった。また、指揮のダン・エッティンガーが強弱を大胆に変化させながら、オーケストレーションの現代性を強調した。「イタリア的」なスタイルではないが、1924年にプッチーニがたどり着いた地点が示され、その響きは演出された世界との親和性も高かった。
歌手だが、トゥーランドット役のソンドラ・ラドヴァノフスキーは、力強さが優先されがちなこの役を色彩豊かに歌った。強弱のダイナミックレンジが非常に広く、その間を行き来してニュアンスを細やかに加える。巨声を響かせながら、第一声からどこか神経質で繊細さを併せもった女性だと伝えられる。この役でこれほど微妙な性格表現をこなすのは驚異的だ。
カラフはアンナ・ネトレプコの夫君のユーシフ・エイヴァゾフで、開幕前に不調を伝えるアナウンスが入ったが、それでも超ド級のカラフだった。強い声が豊かに湧き出て、ストレスなく延々と引き伸ばされる。この役がこうして歌われると気持ちがいい。いま世界最高のカラフだろう。
フェオラのリューは、微弱音まで徹底してコントロールされ、美しさの極みだった。作曲家がもっとも描きたかったのがリューの自己犠牲であったとすれば、可憐(かれん)な力強さが精緻に表現されたフェオラのリューは、プッチーニが望んだ究極の姿だとさえ思えた。
柔軟な指揮の下、3人の名歌手が冴(さ)えた迫真の「オテッロ」
12月15日はピアチェンツァでヴェルディ「オテッロ」を観(み)たが、これがまたとびきりの名演だった。表題役のグレゴリー・クンデは、この時点で還暦を2カ月後に控えていたとは到底信じられない。声が湧き出るだけでなく、表現が多彩で深く、弱い人間としてのオテッロが存分に描かれ、迫真の苦悩に見ていて苦しくなるほどだった。昨年、東京フィルの演奏会で歌ったときより調子はかなりよかった。
しかし、クンデの一人舞台ではない。イアーゴ役のルカ・ミケレッティは圧倒的な美声で、しかも声と動作が一体となって演劇性が高い。悪役こそ美声で歌われると説得力があると思わされた。これほどの美声で、かつ歌唱がスタイリッシュなバリトンは、現役ではほかに一人もいないのではないか。ピエロ・カップッチッリやレナート・ブルゾンを後継する品格ある美声のバリトンは、ミケレッティで決まりだと思わされた。
デズデーモナは、昨秋のボローニャ歌劇場日本公演で「ノルマ」の表題役を歌ったフランチェスカ・ドット。この日がデビューだった彼女のデズデーモナは、意志をもった女性として描かれ、ピアニッシモを精密に表現できる強みもあり、甘さ、強さ、弱さが見事に描き分けられた。
指揮は昨年、二期会の「ドン・カルロ」を指揮したレオナルド・シーニ。劇性をたもちながら音楽を柔軟に推進し、心理劇的なドラマが音と一体化した。イタロ・ヌンツィアータのイタリア人の美意識が冴えた舞台が色を添えた。
かはら・とし
音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「魅惑のオペラ歌手50:歌声のカタログ」(共にアルテスパブリッシング)など。「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。