日本のベテランマエストロが指揮したN響2月定期公演

井上道義&N響のショスタコーヴィチは昨シーズンも「最も心に残ったN響コンサート&ソリスト」にランクインするなど聴き手の心を捉えている 写真提供:NHK交響楽団
井上道義&N響のショスタコーヴィチは昨シーズンも「最も心に残ったN響コンサート&ソリスト」にランクインするなど聴き手の心を捉えている 写真提供:NHK交響楽団

日本のベテラン指揮者2人が登場したNHK交響楽団の2月定期公演A・Cプログラムをそれぞれ振り返る。Aプロは今年いっぱいで指揮活動からの引退を表明している井上道義がショスタコーヴィチの交響曲第13番ほかを取り上げた。一方、Cプロは大植英次がリヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」をメインに端正な演奏を披露した。(宮嶋 極)

 

【井上道義指揮、N響2月定期公演Aプログラム】

この日の演奏を聴いて多くの聴衆が「なぜ、引退するのか」と感じたことは間違いないだろう。引退予定時の今年年末に78歳を迎える井上は客席から見る限り、気力が漲(みなぎ)っている様子で、入退場の足取りも軽やか。肝心の指揮の身振(ぶ)りもベテランらしく肩の力が抜けている一方で、独特の切れがある。何よりも深みを増した表現によって作品の本質に肉薄する音楽作りがなされ、それは聴き手の心を打つものだったからである。

プログラムもなかなか凝っていた。得意のショスタコーヴィチの交響曲から第13番をメインに据え、前半は同じショスタコーヴィチのダンス音楽を中心とした軽めの作品集とヨハン・シュトラウスⅡ世のポルカ「クラップフェンの森で」という構成。一見異質に映る「クラップフェンの森で」はシュトラウスがかつて契約を結んでいたロシア・ペテルブルク(現サンクトペテルブルク)の「パヴロフスク駅(ロシアでは路線の終点がその始発駅の駅名となることが多い)」の音楽ホールを再訪した1869年に作曲されたもので、当初のタイトルは「パヴロフスクの森で」だった。翌年ウィーンで再演する際に「クラップフェン…」に改題されたロシア繋(つな)がりの作品である。

そのポルカであるが、エッジの利いた高音が際立つウィーン・フィルによる華やかな雰囲気とは異なり、柔らかなサウンドを基調とした優雅な表現に聴き惚(ほ)れてしまう。続くショスタコーヴィチの軽音楽集も軽妙な中にそこはかとない悲哀を感じさせる、作曲者の思いを投影したかのような表現の数々に後半の交響曲にも通底する井上の計算を垣間見ることができた。

大編成の「バビ・ヤール」ではティホミーロフ(バス)、オルフェイ・ドレンガル男声合唱団を招いて 写真提供:NHK交響楽団
大編成の「バビ・ヤール」ではティホミーロフ(バス)、オルフェイ・ドレンガル男声合唱団を招いて 写真提供:NHK交響楽団

ロシア・タタールスタン出身のバス、アレクセイ・ティホミーロフとスウェーデンのオルフェイ・ドレンガル男声合唱団を招いての「バビ・ヤール」は声楽陣の重苦しい歌唱とN響の重厚なサウンドが相まって強烈なインパクトをもって作品のテーマが浮き彫りにされた演奏に仕上がっていた。第2次世界大戦中の1941年9月にウクライナ・キーウ郊外にあるバビ・ヤール峡谷で発生したユダヤ人大量虐殺事件をテーマにした作品だけに、80年以上が経過した今、出口の見えないロシアによるウクライナ侵略戦争、そして多くの一般市民の犠牲を顧みずに続行されるイスラエルとパレスチナの紛争に思いを馳(は)せて演奏に耳を傾けた聴衆は私だけではないはずだ。今、ショスタコーヴィチが生きていたら現下の世界情勢に何を感じたのであろうか…。井上とN響の迫真の熱演にオケが退場しても喝采は鳴り止(や)まず、井上がステージに再登場し歓呼に応えていた。

聴衆の拍手に応えるティホミーロフ(左)と井上
聴衆の拍手に応えるティホミーロフ(左)と井上
オーケストラの退場後、喝采に応えて再びステージへ登場した井上。深々と一礼する姿が印象的
オーケストラの退場後、喝采に応えて再びステージへ登場した井上。深々と一礼する姿が印象的

【大植英次指揮、N響2月定期公演Cプログラム】

大植がN響の指揮台に立つのはコロナ禍中の2021年の特別公演以来で、定期となると1999年6月A定期から実に25年ぶりのこととなる。この時は将来が期待される日本の若手指揮者という括(くく)りで、大植は既に米国・ミネソタ管弦楽団音楽監督を務め、ハノーファー北ドイツ放送フィルの首席指揮者就任が内定しているなど、躍進の時期にあった。ちなみに大植のほかにB定期は上岡敏之、C定期は大勝秀也が指揮している。今回は井上道義とともにベテラン日本人指揮者としての位置付(づ)けであろう。

さて、この日の演奏であるが作品の骨格を堅固に構築した上でひとつひとつのフレーズを丁寧に処理することを繰り返していく端正なものであった。1曲目、ワーグナー「ジークフリートの牧歌」は弦楽器を12型に絞ってはいたもののN響弦楽器セクションの重厚で温かみのある響きが威力を発揮し、静謐(せいひつ)な落ち着いた雰囲気の中に妻(コージマ)へのワーグナーの思いが穏やかに表出された秀演であった。

定期公演では25年ぶりにN響の指揮台に立った大植英次 写真提供:NHK交響楽団
定期公演では25年ぶりにN響の指揮台に立った大植英次 写真提供:NHK交響楽団

リヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」はN響の高い技術力を存分に活用し、前述したとおりの端正で完成度の高い演奏。大植は楽想やフレーズの継ぎ目を丁寧に処理して音楽に連続した流れを持たせ、交響詩らしい一体性を堅固に作り出して見せた。また、この曲はコンマスに難易度の高い長大なソロがあることでも知られているが、この日コンマスを務めたのは郷古廉(N響ゲスト・コンマス)。さすがソリストとして活躍する実力派若手ヴァイオリニストだけに、難しい重音のパッセージや跳躍でも音程が不安定になる箇所は一切なく、ち密で美しいソロを披露した。彼の見事な独奏はN響の新時代到来を予感させるものであった。

正攻法なアプローチの中に情熱を湛(たた)えたこの日の大植の指揮ぶりには彼本来の音楽を久しぶりに聴いた思いがした。2005年、日本人として初めて指揮台に立ったバイロイト音楽祭で期待されたほどの成果を上げられなかったことを機に、以降、極端な解釈やステージ上でのオーバーアクションに驚かされたりすることもあったのも事実。この日は久しぶりに燕尾(えんび)服で登場し、彼本来のオーセンティックな演奏を聴かせてくれたことに良い意味で驚かされた。長いトンネルを抜けてさらなる高みへと歩みを進めていくであろうマエストロの姿がそこにはあった。

「英雄の生涯」で高難度のソロを鮮やかに担ったゲスト・コンマスの郷古廉(手前) 写真提供:NHK交響楽団
「英雄の生涯」で高難度のソロを鮮やかに担ったゲスト・コンマスの郷古廉(手前) 写真提供:NHK交響楽団

公演データ

NHK交響楽団第2004回定期公演Aプログラム

2月3日(土)18:00、4日(日)14:00 NHKホール

指揮 : 井上 道義
バス : アレクセイ・ティホミーロフ
男声合唱 : オルフェイ・ドレンガル男声合唱団
コンサートマスター:郷古 廉

ヨハン・シュトラウスII:ポルカ「クラップフェンの森で」Op.336
ショスタコーヴィチ:舞台管弦楽のための組曲 第1番 ~「行進曲」「リリック・ワルツ」「小さなポルカ」「ワルツ第2番」
ショスタコーヴィチ:交響曲第13番変ロ短調Op.113「バビ・ヤール」

 

NHK交響楽団第2005回定期公演Cプログラム

2月9日(金)19:30、10日(土)14:00 NHKホール

指揮 : 大植 英次
コンサートマスター:郷古 廉

ワーグナー:ジークフリートの牧歌
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」Op.40

宮嶋 極
宮嶋 極

みやじま・きわみ

放送番組・映像制作会社である毎日映画社に勤務する傍ら音楽ジャーナリストとしても活動。オーケストラ、ドイツ・オペラの分野を重点に取材を展開。中でもワーグナー作品上演の総本山といわれるドイツ・バイロイト音楽祭には2000年代以降、ほぼ毎年訪れるなどして公演のみならずバックステージの情報収集にも力を入れている。

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