第33回 旧国立競技場で「ローエングリン」が上演されたこと

1959年8月、旧国立競技場で上演されたワーグナー「ローエングリン」
1959年8月、旧国立競技場で上演されたワーグナー「ローエングリン」

 弦楽器群が最弱音で「聖杯グラールの動機」を奏し、前奏曲が始まる。同時にグラウンドの4カ所から、大きな気球がゆっくりと上がってゆく。弦が次第に数を増し、音楽が膨らんでゆくのにつれ、4つの気球が夕暮れの紺碧(こんぺき)の空へと高く、昇る、昇る、おお、どんどん昇ってゆく。数万の観衆の眼がそれらを追う。ついに気球群が碧い空に停止し、沈む夕陽の残照を受けて赤く輝いたとき、前奏曲のあの豪壮なクライマックスが爆発し、「聖杯グラールの動機」がオーケストラの最強奏で壮大に響きわたる。圧倒的な光景だ。1959年8月15日、鬼才・武智鉄二が演出を、岡本太郎が装置を受け持った野外オペラ、ワーグナーの「ローエングリン」のこれが幕開き場面だった。

 

神宮の旧国立競技場に数万の観客を集め、野外オペラが上演されたことなど、今では覚えている人も少ないだろう。1959年といえば、二期会や藤原歌劇団などがすでに盛んにオペラを上演していたものの、NHKがそれまでに招聘(しょうへい)した2回の「イタリア・オペラ」が、黒船的な衝撃を日本のオペラ・ファンに与え、しかもNHKがテレビで生中継や録画放送を繰り返し行なった(当時はそうだったのだ!)こともあって、一般の人たちの間にさえ、オペラ熱が高まりつつあった時代なのだった。その前年夏には、同じ旧国立競技場で、ヴェルディの「アイーダ」が、野外オペラとして上演されていたのだ。

 

夜6時半に始まったこの「ローエングリン」は、森正の指揮、ABC交響楽団、二期会と藤原歌劇団の合唱。それに主な歌手は、高田信男(白鳥の騎士ローエングリン)、砂原美智子(エルザ姫)、石津憲一(テルラムント伯爵)、栗本尊子(その妻オルトルート)、栗本正(ドイツ国王ハインリヒ)、友竹正則(布告官)。ただし前年の「アイーダ」と同じく、演奏は全て事前に録音されたテープの再生で、それがハザマ電機のHi-Fi(ハイファイと読む)装置で場内に流される。音質はなかなかのものだったと思う。

 

一方、グラウンドは猛烈に華やかだ。前記歌手陣のほか、舞踊には小牧バレエ団のほか谷桃子バレエ団、花柳日本舞踊団、その他の団体が応援として加わり、兵士や群衆には前記の合唱団の他に、立教大学グリークラブほか学生の合唱団が応援参加する。それに加え、東急アバロン乗馬学校、馬事公苑、清風会の騎馬隊が数十騎も登場するというわけで、その登場人物の数たるや、延べ1500人におよんだとか。その人たちが、演奏に合わせてグラウンドを乱舞するわけだから、まさに夏の夜の大エンターテインメントと呼ぶにふさわしい。

 

細部は全部覚えているわけではないけれども、今でも目の奥に残っている光景は、たとえばローエングリンとテルラムントの決闘場面。馬に乗った2人の騎士が駆け違って槍(やり)で相手を落馬させるという方法で――どうせ乗っているのは歌手本人ではなく、吹替だろうが――その瞬間に大きな閃光(せんこう)が走って煙が上がり、遠くから見るとなんだかよくわからぬうちに勝負がついていた、という場面だ。それから、第3幕で待ちかねた兵士たちの前にローエングリンが姿を現し、全員が「ブラバントの英雄、万歳!」と叫ぶ箇所では、彼方からローエングリンが白馬に乗って疾駆して来るという具合。何ともド派手な光景が繰り広げられていたのだった。

 

こういう場面だけ取り上げて書いていると、オペラ鑑賞としてはいかがなものかと言う人が出て来るかもしれない。だが、当時から熱烈なワグネリアンだった筆者は、音楽はちゃんと聴いていたはずだったし、まあ、いいではないか。とにかくオペラを広めようという当時の人々の熱意と努力を、いまだ初心者だった筆者も正面から受け止めたつもりだし、実際に楽しい思い出として、今に至るまで心の奥に残っているのだから――。

 

いわゆるイヴェント・オペラは、その後、80年代、90年代になっても、散発的に行われていたはずである。「アイーダ」や「トゥーランドット」などを、そういう機会に観た方も少なくないのではなかろうか。1991年にヴェローナ・オペラが代々木体育館で上演した「トゥーランドット」の時だが、ロビーでお父さんらしき人が子供たちに「そうすると今度は、王子様がお姫様に、明日の朝までに私の名前を当ててみなさい、という問題を出すんだ」と説明しており、子供たちが「フーン」と聞き入っているのを見たことがある。いい光景だった。ああいう場がもっと増えればいいな、と思うのだが。たしかあのイヴェント・オペラは、延べ6万人ほどの観客を集めたはずである。その1%の人だけでも、のちにオペラを観にゆくようになってくれれば、と――。

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東条 碩夫

とうじょう・ひろお

早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(中公新書)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。ブログ「東条碩夫のコンサート日記」 公開中。

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