後期ロマン派の音の〝洪水〟を驚異の解像度で再現
「グレの歌」はシェーンベルクがデンマークの作家ヤコブセンの未完小説「サボテンの花開く」のドイツ語訳を入手した1900年に作曲を始め1903年に中断、1910年に再開し翌年完成した大作。ジャンルとしてはオラトリオやカンタータよりもオペラに近く、第1部と第2部終盤から第3部にかけてとでは管弦楽の様式が異なり、演奏至難の大曲といえる。今夜の演奏は爛熟の極みから崩れる一歩寸前の後期ロマン派音楽、その膨大な情報量の〝洪水〟を驚くほど高い解像度で再現した。
マレク・ヤノフスキ(1939年生まれ)はワーグナー楽劇の演奏会形式上演を中心に2014年から東京・春・音楽祭に出演を重ね、1990年代から共演を続けるNHK交響楽団と数多くの名演を繰り広げてきた。2026年でこの音楽祭を引退することを決め、「グレの歌」と対峙した。オーケストラはスコアの指定通り20型(第1ヴァイオリン20人)の巨大編成、フルートだけで8人(うち4人はピッコロ持ち替え)もいた。ヤノフスキとしては声楽(独唱&合唱)、管弦楽が複雑に絡み合い、再現スタイルのギアチェンジまで求められる怪物的作品でN響とともに最高水準の演奏を達成し、有終の美を飾ろうとしたように思える。
前奏曲で透明かつしなやかだった弦楽合奏は次第に厚みと色彩を増し、第2部では芳醇の域にまで達した。かつて某巨匠指揮者とのインタビューで「オーケストラのパワーは弦の絨毯(じゅうたん)の厚みで決まり、管楽器はトッピングに過ぎない」と諭されたが、ヤノフスキがN響から引き出したサウンドはまさにゴージャスな弦の庭に咲く色とりどりの管の花との融合体であり、どんなフォルテでも決してブラスバンドのようにはならない。N響の持てる力を最大限に引き出し、陶酔境へと導いた手腕は巨匠芸そのものだ。そして、ヴァルデマール王とトーヴェの密かな愛を彩る音楽の随所に現れる「トリスタンとイゾルデ」の痕跡を丁寧にすくい上げ、聴き手の耳を楽しませる配慮も、長くワーグナーの演奏会形式上演をともにしてきた指揮者とオーケストラらしい自然な振る舞いだった。
声楽チームの力量も確かだった。出ずっぱり感のあるヴァルデマール王をパワフルに歌いつつ、明るめの音色で口跡の明瞭さが際立ったデイヴィッド・バット・フィリップ(テノール)と相変わらず美しく透明な声を保ち、管弦楽とも堂々と渡り合うトーヴェのカミラ・ニールンド(ソプラノ)の力量は拮抗し、第1部のドラマを掘り下げた。トーヴェの死を告げる山鳩のオッカ・フォン・デア・ダメラウ(メゾ・ソプラノ)の深みと艶、声量も申し分ない。農夫のミヒャエル・クプファー=ラデツキー(バリトン)は朴訥さ、道化師クラウスのトーマス・エベンシュタイン(テノール)のシニカルな雰囲気はそれぞれ、役柄を適確に押さえていた。語り手はこの音楽祭や新国立劇場の常連であるアドリアン・エレート(バリトン)が務め、キリッとした言葉さばきで大団円に導いた。
エベルハルト・フリードリヒと西口彰浩が合唱指揮を担った東京オペラシンガーズは音圧だけでなく、斬り込みの鋭さでもドラマの肉付けに貢献。出番は少ないながら、強い印象を残した。
(池田卓夫)
公演データ
東京・春・音楽祭2026 東京春祭 合唱の芸術シリーズ vol.13
シェーンベルク「グレの歌」
3月25日(水)19:00東京文化会館 大ホール
指揮:マレク・ヤノフスキ
ヴァルデマール王(テノール):デイヴィッド・バット・フィリップ
トーヴェ(ソプラノ):カミラ・ニールンド
農夫(バリトン):ミヒャエル・クプファー=ラデツキー
山鳩(メゾ・ソプラノ):オッカ・フォン・デア・ダメラウ
道化師クラウス(テノール):トーマス・エベンシュタイン
語り手(バリトン):アドリアン・エレート
合唱:東京オペラシンガーズ
合唱指揮:エベルハルト・フリードリヒ、西口彰浩
管弦楽:NHK交響楽団
コンサートマスター:郷古廉
プログラム
シェーンベルク:「グレの歌」
いけだ・たくお
2018年10月、37年6カ月の新聞社勤務を終え「いけたく本舗」の登録商標でフリーランスの音楽ジャーナリストに。1986年の「音楽の友」誌を皮切りに寄稿、解説執筆&MCなどを手がけ、近年はプロデュース、コンクール審査も行っている。










