ウィーン国立歌劇場 2025年日本公演 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲「フィガロの結婚」

総合芸術としてすべてが高度にバランスした極上の「フィガロの結婚」

なにか強い刺激を受けたわけではない。だが、全方位を高品位で趣味がいいものに包まれたときにだけ感じる深い満足感を抱き、帰宅の途に着くことができた。

ベルトラン・ド・ビリーの指揮は序曲から速めのテンポで、深い光沢を帯びた音が躍動し、オペラがはじまると、歌手の声の表情と管弦楽の微妙な抑揚が絶妙にからみ合う。指揮者が指示を徹底しつつ、リハーサルに時間をかけなければこうはならない。

スザンナ(左、カタリナ・コンラディ)とフィガロ(右、リッカルド・ファッシ)(C)Kiyonori Hasegawa
スザンナ(左、カタリナ・コンラディ)とフィガロ(右、リッカルド・ファッシ)(C)Kiyonori Hasegawa

同時に、歌手たちの動きが音楽と一体化している。たとえば、幕開けの小二重唱でフィガロは巻き尺片手に、部屋の床ではなくスザンナの体の寸法を測りながらキスを繰り返し、スザンナがその手を払う。そんな他愛のない動きが一つひとつ、音楽の動きに呼応している。バリー・コスキーは、演劇的であることが音楽的であるという点で理想的だ。

少し戸惑ったのは、舞台の前に壁があり、序曲が終わるとそれが取り払われるのかと思ったら、壁の前でドラマが繰り広げられたことだ。それは伯爵がスザンナとフィガロにあたえた部屋の壁だった。壁の前の狭い空間で展開した分、ドラマが凝縮したともいえる(音響効果もよかった)。そして第2幕になると、壁の奥からロココの壁画で飾られた伯爵夫人の部屋がせり出してきた。部屋の美しさも、その見せ方も鮮やかだった。

壁の前で歌うケルビーノ(パトリツィア・ノルツ)(C)Kiyonori Hasegawa
壁の前で歌うケルビーノ(パトリツィア・ノルツ)(C)Kiyonori Hasegawa

冒頭から、安定した音質で端正に歌うフィガロのリッカルド・ファッシ、瑞々しくキレがいいスザンナのカタリナ・コンラディらが充実したアンサンブルを聴かせた。ケルビーノのパトリツィア・ノルツも磨かれている。だが、アンサンブルの白眉は第2幕にやってきた。衣裳室にだれがいるのかと叫ぶ伯爵、うろたえる夫人、気を揉むスザンナの三重唱は、アンサンブルの美しさを保ちつつ、3人の歌手の卓越した歌唱により見事な心理劇も味わえるという、幾重にも味わい深い場面だった。

アルマヴィーヴァ伯爵夫人(左、ハンナ=エリザベット・ミュラー)、スザンナ(中央、コンラディ)、アルマヴィーヴァ伯爵(右、ダヴィデ・ルチアーノ)の3人が、歌唱で見事な心理劇を展開した(C)Kiyonori Hasegawa
アルマヴィーヴァ伯爵夫人(左、ハンナ=エリザベット・ミュラー)、スザンナ(中央、コンラディ)、アルマヴィーヴァ伯爵(右、ダヴィデ・ルチアーノ)の3人が、歌唱で見事な心理劇を展開した(C)Kiyonori Hasegawa

伯爵のダヴィデ・ルチアーノは存在感ある力強い声で、伯爵の尊大さを見事に表し、伯爵夫人のハンナ=エリザベット・ミュラーは輝かしい倍音を帯びた声で、極上のレガートを聴かせた。ちなみに、ルチアーノは代役だが、拙著『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(アルテスパブリッシング)でも紹介しており、私は彼が伯爵になって歓喜したが、期待通りの歌だった。

この2人は、第3幕のアリアでもそれぞれ輝いた。ルチアーノはスザンナを疑って歌うアリアで、艶がある声による強い感情を見事な様式感のなかにまとめた。伯爵夫人は伯爵の愛を取り戻そうと決意して歌うアリアを、薫り高い声に複雑な心情をにじませ、凛として歌った。

ルチアーノは艶がある声による強い感情を見事な様式感のなかにまとめた(C)Kiyonori Hasegawa
ルチアーノは艶がある声による強い感情を見事な様式感のなかにまとめた(C)Kiyonori Hasegawa

そして第4幕。上等な音楽劇の結びは、やはり上等だった。伯爵が夫人に許しを請うと、夫人は「私のほうが素直ですから〝はい〟といいます」と答え、合唱が和解を強調する。この場面が悲しすぎるほど美しかった。夫人は和解を受け入れながら、その声には悲しみや諦めを複雑に滲ませている。その微妙な声の色合いに合唱が重なり、字幕に「これで皆円満、ああ、何と幸せなことか」と書かれる。一筋縄ではいかない和解。そのときの複雑な心理が複雑なまま客席に伝わる。総合芸術たるオペラが、その力を最高度に発揮した瞬間だった。

(香原斗志)

一筋縄ではいかない和解、複雑な心理が描かれた(C)Kiyonori Hasegawa
一筋縄ではいかない和解、複雑な心理が描かれた(C)Kiyonori Hasegawa

公演データ

ウィーン国立歌劇場 2025年日本公演
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲「フィガロの結婚」

10月 5日(日)14:00東京文化会館 大ホール

指揮:ベルトラン・ド・ビリー
演出:バリー・コスキー
装置:ルーファス・ディドヴィシュス
衣裳:ヴィクトリア・ベーア
照明:フランク・エヴィン
合唱監督:トーマス・ラング

アルマヴィーヴァ伯爵:ダヴィデ・ルチアーノ
アルマヴィーヴァ伯爵夫人:ハンナ=エリザベット・ミュラー
スザンナ:カタリナ・コンラディ
フィガロ:リッカルド・ファッシ
ケルビーノ:パトリツィア・ノルツ

合唱:ウィーン国立歌劇場合唱団
管弦楽:ウィーン国立歌劇場管弦楽団
コンサートマスター:ライナー・ホーネック

プログラム
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲「フィガロの結婚」全4幕

他日公演
10月 7日(火)15:00、9日(木)18:00、11日(土)14:00、12日(日)14:00
会場:東京文化会館 大ホール

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香原斗志

かはら・とし

音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「魅惑のオペラ歌手50:歌声のカタログ」(共にアルテスパブリッシング)など。「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。

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