ミケーレ・マリオッティ指揮 東京交響楽団 第731定期演奏会

管弦楽、合唱、歌手、すべてを見事に制御したマリオッティの凄味

前半はモーツァルトの交響曲第25番だったが、その冒頭から驚かされた。ヴァイオリンとヴィオラの意表を突くほど鋭い響きで、本来の緊張感が増幅され、デモーニッシュな空気さえ湛える。だが、シャープなだけでない。抜群の音量コントロールのもと、デュナーミクが細やかに変化し、細部の細部まで表情が深く豊か。オーボエやホルンの加わり方も、エッジが立ちながら滑らかなのだ。

深い作品解釈と、隅の隅まで徹底して自身の意図を浸透させるマリオッティの意志と手腕に、驚いた聴き手は多かったと思う。それは「悲しみの生母」の邦題でも知られるロッシーニ「スターバト・マーテル」で、さらなるスケールで示され、発揮された。

ロッシーニ「スターバト・マーテル」©N.Ikegami/TSO
ロッシーニ「スターバト・マーテル」©N.Ikegami/TSO

導入曲はゆっくりとはじまり、徐々に音量を増しながらテンポが速まる。その音楽に聖母の悲しみが深くにじむ。マリオッティはオーケストラを完全に掌中に収め、微妙な表情を引き出す。その動作に加え、とくに左手の動きに、オーケストラは細やかに呼応する。手がフワッと上向くと、音量が増して音がキュッと上向き、手がフワッと下に向くと音量が落ち、やわらかく着地する。魔術のようである。

徹底して追求されているのが弱音で、それが美しく洗練されているから強音が活き、ドラマが生じる。これは昨年12月、ローマ歌劇場で聴いたヴェルディ「シモン・ボッカネグラ」などでも同様だった。しかも、弱音と強音の間のデュナーミクの変化は、無段変速のように滑らかで、それでいて劇的なのだが、合唱も同様だ。やはり無段変速のように、マリオッティの手の動きに従って音量を変える。合唱指揮の辻󠄀裕久の力もあるだろうが、徹底して細やかな表情は、明らかにマリオッティのねらい通りである。

指揮者のミケーレ・マリオッティ。徹底して追求された弱音が美しく洗練され、強音を活かした©N.Ikegami/TSO
指揮者のミケーレ・マリオッティ。徹底して追求された弱音が美しく洗練され、強音を活かした©N.Ikegami/TSO

こうしてマリオッティが形成する深い祈りの呼吸に、歌手たちも見事に組み込まれた。たとえば、第2曲でのマキシム・ミロノフ(テノール)。ソットヴォーチェを用いて旋律を和らげ、高いDes(変ニ音)には胸音に頭音を混ぜてやわらかい響きにする。響きが弱いと思った人もいるかもしれないが、これは胸声による強いアクートを嫌ったロッシーニの意図を汲んだ高度な表現である。

第3曲では、ハスミック・トロシャン(ソプラノ)とダニエラ・バルチェッローナ(メゾソプラノ)も、音量に微妙な変化を加えながら、歌唱美に高い精神性を加え、第5曲のマルコ・ミミカ(バスバリトン)も、堂々たる声による端正な歌唱に深いニュアンスを加えた。

左からハスミック・トロシャン(ソプラノ)、ダニエラ・バルチェッローナ(メゾソプラノ)、マキシム・ミロノフ(テノール)、マルコ・ミミカ(バスバリトン)©N.Ikegami/TSO
左からハスミック・トロシャン(ソプラノ)、ダニエラ・バルチェッローナ(メゾソプラノ)、マキシム・ミロノフ(テノール)、マルコ・ミミカ(バスバリトン)©N.Ikegami/TSO

オーケストラ、合唱、ソリスト。いずれも徹頭徹尾、音量が精密にバランスされ、休符による間(ま)の一つひとつにも精神性が宿る音楽。筆者はロッシーニの「スターバト・マーテル」は何度も聴いており、マリオッティの指揮でも過去に聴いているが、ここまで精緻で深い演奏は記憶にない。「記念碑」と呼ぶにふさわしい演奏だった。

(香原斗志)

公演データ

東京交響楽団 第731定期演奏会

6月8日(日)14:00サントリーホール 大ホール

指揮:ミケーレ・マリオッティ
ソプラノ:ハスミック・トロシャン
メゾソプラノ:ダニエラ・バルチェッローナ
テノール:マキシム・ミロノフ
バスバリトン:マルコ・ミミカ
合唱:東響コーラス
合唱指揮:辻󠄀裕久
管弦楽:東京交響楽団
コンサートマスター:グレブ・ニキティン

プログラム
モーツァルト:交響曲 第25番 ト短調 K.183
ロッシーニ:スターバト・マーテル

Picture of 香原斗志
香原斗志

かはら・とし

音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「魅惑のオペラ歌手50:歌声のカタログ」(共にアルテスパブリッシング)など。「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。

連載記事 

新着記事 

SHARE :