いまだかつて聴いたことがないほどのデリケートな響きの変化で作品の内面に光を当てたミハイル・プレトニョフのピアノ・リサイタル
ミハイル・プレトニョフのピアノ・リサイタルを聴いた。前半はベートーヴェンのソナタ第8番「悲愴」と第14番「月光」の2曲、後半はグリーグの抒情小品集66曲の中から16曲をチョイスした演目。

ベートーヴェンのソナタ第8番はこの作曲家の演奏スタイルの〝スタンダード〟にまったく拘らないアプローチ。ベートーヴェンならではの構造感を強調する刻みの音符はすべてレガート気味に、それもやや弱めに弾き、作品の構造を構築するよりは各和音を構成する音のバランス配分に細心の注意を払い、響きの微細な変化を淡いタッチで表現していく。常に和音の最低音を少し強めに弾き、高音域を突出させることはほとんどない。極端な強い音は出さずに穏やかな表情の内側にエネルギーを溜めているような雰囲気。これらは最近流行のフォルテピアノを意識したような音作りとは対極をなすもので、ペダルを多用し、時には譜面と異なる箇所も散見された。(採用している版は不明)ただ、第3楽章後半、対位法を駆使して主題が再現される箇所のみペダルをほとんど踏まずにバロック的な雰囲気を醸し出していたのは興味深かった。
第14番「月光」も基本的には同じスタイル。右手はレガートで柔らかく、左手は丹念に和音を紡いでいく。第3楽章は激しさや技巧の誇示よりはプレトニョフ自身の内面に眼差しを向けているような深みを感じさせる演奏であった。

この日の使用楽器はプレトニョフが愛用しているシゲル・カワイのフルコン。特別な木材を長期間乾燥させて製作した響板、手巻きの弦など、すべてが手作りで組み立てられた楽器だ。スタインウエイなどに比べると中・低音が厚くややくぐもったような柔らかな高音が特徴。まさに今のプレトニョフの指向と合致した楽器といえよう。その効果がさらに発揮されたのが後半のグリーグであった。
柔らかな高音のとてつもない弱音がホール全体に繊細に響きわたるのにまず驚かされた。特に印象的だったのは「蝶々」のしなやかな動きを活写したような旋律線、「小鳥」のきらめくような高音域、「夏の夕べ」の転調による響きのデリケートな移ろいの表出、「ノクターン」の絹の肌触りを思わせるキメ細かなトリル、等々であるが、内省的でデリケートな表現の数々はいずれも息を飲むほどの美しさであった。世界に名ピアニストは数多いるものの、後半のグリーグにおいては、こうした演奏ができるのはプレトニョフのほかにはいないだろうとまで思わせてくれるくらい、彼ならではの深みのある世界観が表現された名演であった。終演後、鳴り止まない喝采に応えて同じグリーグの「民俗生活の情景-ピアノのためのユモレスク」から〝謝肉祭より〟がアンコールされた。
(宮嶋極)

公演データ
ミハイル・プレトニョフ ピアノ・リサイタル
6月4日(水)19:00 サントリーホール 大ホール
ピアノ:ミハイル・プレトニョフ
プログラム
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番ハ短調Op.13「悲愴」
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調Op.27-2「月光」
グリーグ:抒情小品集より
「祖国の歌」Op.12-8 「子守歌」Op.38-1
「蝶々」Op.43-1 「エレジー」Op.38-6
「メロデイ」Op.38-3 「小鳥」Op.43-4
「小川」Op.62-4 「郷愁」Op.57-6
「即興的ワルツ」Op.47-1
「おばあさんのメヌエット」Op.68-2
「過ぎ去った日々」Op.57-1 「夏の夕べ」Op.71-2
「スケルツォ」Op.54-5 「孤独なさすらい人」Op.43-2
「ノクターン」Op.54-4 「小妖精」Op.71-3
アンコール
グリーグ:「民俗生活の情景-ピアノのためのユモレスク」よりOp.19-3〝謝肉祭より〟
※これからの他日公演
6月7日(土)14:00 兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール
6月8日(日)19:00 ミューザ川崎シンフォニーホール

みやじま・きわみ
放送番組・映像制作会社である毎日映画社に勤務する傍ら音楽ジャーナリストとしても活動。オーケストラ、ドイツ・オペラの分野を重点に取材を展開。中でもワーグナー作品上演の総本山といわれるドイツ・バイロイト音楽祭には2000年代以降、ほぼ毎年訪れるなどして公演のみならずバックステージの情報収集にも力を入れている。