エモーションの封殺から最大注入まで――バイエルン放送交響楽団の技能と芸術性を証明した圧巻の演奏
バイエルン放送交響楽団は、サイモン・ラトルを首席指揮者に迎えてから1年ほどを経たばかりだが、はやくも「ラトル印」をはっきりと刻んでいるようだ。
しょっぱなから、水と油のようなリゲティとワーグナーを間髪置かずに演奏し、そこに歴史的連続性のあることを証明してみせる。前者から「アトモスフェール」を、後者から「ローエングリン」第1幕への前奏曲を、つまり「浮遊する音響」の極限バージョンとその先駆けを選んでみせたのだ。そしてそれが同時に、楽団の技能と芸術性の良きデモンストレーションとなる。最弱音から最強音まで、最低音から最高音まで、エモーションの封殺から最大注入まで、すべての局面において疵がなく、こちらの脳髄を鷲づかみにする緊張感ではち切れんばかりであった。
これに続いて、ウェーベルンの「6つの小品」とワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲と愛の死が、やはり繋げて演奏された。こちらの共通項は「死」であろう。言葉なき無調のレクイエムともいうべきウェーベルン作品には、母親の死が背景にある。その第4曲。嗚咽のようなトロンボーンのノイズと、絶叫になる手前で寸止めされた打楽器群のクレッシェンドには震えた。イゾルデの愛の死の絶頂でくっきりと「見えた」チェロの分散和音にも、また。
――と、ここまできて、現代音楽の源流にまでさかのぼっていることに気づく。そして後半は、19世紀と20世紀を繋ぐブルックナー最後の交響曲、第9番の3つの楽章(コールス版)だ。じつに心憎い、ラトルらしいプログラミングであるが、こちらブルックナーがどこか「教科書どおり」であったのは、意外というべきか。音楽が第2主題に至ればよく歌い、高揚に向かえば加速し、「春の祭典」のようになればいきり立つ。その流れは、なるほど後期ロマン派ふうであろうが、ある種の退屈と紙一重でもある。ノーブルな響きのバイエルン放送響を、ベルリン・フィルを鞭打つようにドライブするのも気になる。前半のウェーベルンのようなブルックナーを聴きたかった、と言えば、不当な要求になるだろうか。
きっと「意外」ではないのだ。ラトルには、いうなら教師的なところがある。音楽史を実感させてくれるし、そこに間違いはない。それが魅力でもあり、もしかしたら、限界であるかもしれない。
(舩木篤也)
公演データ
バイエルン放送交響楽団 東京公演
11月27日(水) 19:00サントリーホール大ホール
指揮:サイモン・ラトル
管弦楽:バイエルン放送交響楽団
プログラム
リゲティ:アトモスフェール
ワーグナー:歌劇「ローエングリン」第1幕への前奏曲
ウェーベルン:6つの作小品Op.6
ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」より〝前奏曲〟〝愛の死〟
ブルックナー:交響曲第9番(コールス校訂版)
ふなき・あつや
1967年生まれ。広島大学、東京大学大学院、ブレーメン大学に学ぶ。19世紀ドイツを中心テーマに、「読売新聞」で演奏評、NHK-FMで音楽番組の解説を担当するほか、雑誌等でも執筆。東京藝術大学ほかではドイツ語講師を務める。共著に『魅惑のオペラ・ニーベルングの指環』(小学館)、共訳書に『アドルノ 音楽・メディア論』(平凡社)など。