<第35回> マイケル・スパイアーズ(テノール)

ユシフ・エイヴァゾフ (C) Vladimir Shirokov
ユシフ・エイヴァゾフ (C) Vladimir Shirokov

三オクターヴの音域で重厚な声を輝かせる 現代のバリテノーレ

 アンドレア・ノッツァーリ(1776-1832)。「イングランド女王エリザベッタ」のレイチェスターや「オテッロ」のタイトルロールのほか、「エルミオーネ」のピッロ、「湖上の美人」のロドリーゴ等々、ロッシーニのオペラ・セリアの錚々たるいくつもの役を初演で歌ったテノールだが、いま挙げた役はいずれも、バリトンのような声で力強く歌われるという点で共通している。

 

 このように重く力強い声でテノールの音域を歌う歌手は当時、バリテノーレとよばれた。とりわけロッシーニは、恋人役などを歌う優美な声のテノール(テノーレ・ディ・グラーツィア)に対比させ、その敵役などに力強いテノール(テノーレ・ディ・フォルツァ)であるバリテノーレを配置した。

 

 なぜ、いきなり歴史的な話からはじめたかというと、スパイアーズの歌唱に、バリテノーレの代表格ノッツァーリがよみがえったような錯覚を覚えるからだ。

 

 たとえば、ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバルで2016年に上演された「湖上の美人」。スパイアーズが歌うロドリーゴは、響きは重厚なのに高いC(ド)まで難なく届き、装飾歌唱のテクニックも万全で、優美な声で歌われるジャコモ5世役のフアン・ディエゴ・フローレスとの対比も鮮やかだった。

 

 だが、さらに強烈な刺激を受けたのは、ローレンス・ブラウンリーと一緒にロッシーニのアリアや重唱を録音した「AMICI e RIVALI」と、その名も「BARITENOR」という2枚のアルバムを聴いたときだった。

バリトンの役も重厚に歌う

前者では、軽快なブラウンリーとの対比でスパイアーズの声の重厚さが際立つばかりか、力強い響きのまま細かい音符を切れ味鋭く追い、ハイCやハイD(レ)まで軽々と駆け上がる。そんな曲が続くので、ある意味、実演以上の強烈な印象を受けるが、想像を超える驚きをおぼえたのは、後者の「BARITENOR」を聴いたときだった。

 

そこにはモーツァルト「フィガロの結婚」の伯爵のアリアやロッシーニ「セビリャの理髪師」でフィガロが歌う〝町のなんでも屋〟 、ヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」のルーナ伯爵の〝君の微笑み〟や、レオンカヴァッロ「道化師」のトニオの前口上など、正真正銘のバリトンの独唱が並び、ハイCが連発されるドニゼッティ「連隊の娘」のトニオのアリアなどと一緒に収められているのだ。

 

スパイアーズの3オクターヴにわたる変幻自在の声には、ただただ驚かされる。

 

しかし、テノールが曲芸を披露しているのではない。ノッツァーリもモーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」のタイトルロールや「コジ・ファン・トゥッテ」のグリエルモ、ロッシーニ「泥棒かささぎ」でバスが歌うフェルナンドなどをレパートリーにしていた。「セビリャの理髪師」のアルマヴィーヴァ伯爵を初演で歌ったマヌエル・ガルシア(1775-1832)ら、ほかのバリテノーレも同様に低声の役を歌っていた。

 

スパイアーズの試みは歴史的歌唱を再現しようという知的な営為で、こうした歌手の登場は、われわれの時代のオペラが豊かさを増していることの証でもある。

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香原斗志

かはら・とし

音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリアを旅する会話」(三修社)、「イタリア・オペラを疑え!」(アルテスパブリッシング)。ファッション・カルチャー誌「GQ japan」web版に「オペラは男と女の教科書だ」、「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。

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