アスミク・グリゴリアン ソプラノ・コンサート [Aプロ]

お手本のような造形と深い叙情的表現に脱帽する

極上の声であった。「トゥーランドット」の表題役なども歌うから、劇的な声と思われがちだが、最初に歌われたドヴォルザーク「ルサルカ」の「月に寄せる歌」から、陰影を湛えた潤いのある声で、リリックに歌い上げた。劇的な役も十分にこなせる水準で声のダイナミックレンジが広いので、叙情的表現に余裕が生まれ、紡がれるフレーズは洗練を極める。

極上の歌声を披露したアスミク・グリゴリアン(C)長谷川清徳
極上の歌声を披露したアスミク・グリゴリアン(C)長谷川清徳

チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」の手紙の場では、恋に震える少女の純真さが、ロマンティックな管弦楽法とからんで高度に表現された。グリゴリアンの歌唱は成熟していて隙がない。その点では「大人」の表現だが、磨かれた声は純度が高く、それを活かすことで「少女」のピュアな感情が表出する。そんな逆説的ともいえる高度な表現には脱帽するしかない。一方、「スペードの女王」のリーザのアリアでは、持ち前の陰のある声色を活かし、悲劇的な情感を自然ににじませる。

 

東京交響楽団による演奏会形式の「サロメ」の表題役(2022年11月)では、厚い管弦楽に抵抗するように声を張っていた。そのため「上手さ」が伝わりにくかったが、こうしてリリックな曲を聴くと、彼女が作曲家のあらゆる要請に応えられるテクニックを、高度に備えているとわかる。

 

第2部は没後100年のプッチーニだった。「トゥーランドット」からは、表題役ではなくリューの「氷のような姫君の心も」を。感情がむき出しになりやすいプッチーニでも、グリゴリアンは端正な歌唱スタイルを保ち、情熱は内からにじませる。そのとき彼女の声の強さが活きる。

情熱を内からにじませ、端正な歌唱スタイルを保った(C)長谷川清徳
情熱を内からにじませ、端正な歌唱スタイルを保った(C)長谷川清徳

「マノン・レスコー」の「捨てられて、ひとり寂しく」も、絶望は緻密な音づくりの先にあった。「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」も、繊細なピアニッシモから無理なく響くフォルテまで、制御された極上の表現の奥に、健気な心情がにじむ。音楽性と感情表現の理想の関係がそこにはある。「ジャンニ・スキッキ」の「わたしのお父さま」のようなさり気ないアリアでも、「pietà(お願い)」という歌詞に、音を漸増させたのち漸減させるメッサ・ディ・ヴォーチェのテクニックで無限の表情をあたえる。

 

楽譜に書かれた原点を尊重する昨今のオペラ界で、グリゴリアンにオファーが殺到する理由がよくわかる。彼女は作曲家が望んだように歌える。つまり、折り目正しい歌だが、すべての感情が織り込まれている。それはオペラにとって究極の表現である。2日後のR.シュトラウスがどう表現されるかも楽しみである。

(香原斗志)

公演データ

アスミク・グリゴリアン ソプラノ・コンサート

2024年5月15日(水) [Aプロ]、17日(金) [Bプロ] 19:00 東京文化会館
※取材日は5月15日(水)

指揮:カレン・ドゥルガリャン
演奏:東京フィルハーモニー交響楽団

プログラム

[Aプロ]
ロマンティック・アリアの夕べ
【第一部】
アントニン・ドヴォルザーク
:歌劇「ルサルカ」序曲 、〝月に寄せる歌〟
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
:弦楽のためのエレジー「イワン・サマーリンの思い出」
:歌劇「エフゲニー・オネーギン」タチアーナの手紙の場 〝私は死んでも良いのです〟、
ポロネーズ
:歌劇「スペードの女王」〝もうかれこれ真夜中…ああ、悲しみで疲れ切ってしまった〟
アルメン・ティグラニアン
:歌劇「アヌッシュ」〝かつて柳の木があった〟

【第二部】
ジャコモ・プッチーニ
:歌劇「マノン・レスコー」〝捨てられて、ひとり寂しく〟、間奏曲
:歌劇「蝶々夫人」〝ある晴れた日に〟
:「菊」
:歌劇「ジャンニ・スキッキ」〝わたしのお父さま〟
:歌劇「トゥーランドット」〝氷のような姫君の心も〟


[Bプロ]
ドラマティック・アリアの夕べ

【第一部】
Aプロと同プログラム

【第二部】
アラム・ハチャトゥリアン
:「スパルタクス」スパルタクスとフリーギアのアダージオ
リヒャルト・シュトラウス
:楽劇「エレクトラ」クリソテミスのモノローグ 〝私は座っていることもできないし、飲んでいることもできない〟
:楽劇「サロメ」七つのヴェールの踊り、サロメのモノローグ 〝ああ! ヨカナーン、お前の唇に口づけをしたわ〟

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香原斗志

かはら・とし

音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「魅惑のオペラ歌手50:歌声のカタログ」(共にアルテスパブリッシング)など。「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。

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